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2021.09.10

SUBARU激闘の軌跡 大エース石幡信弘投手を擁した1969年都市対抗 チーム初の決勝戦は、劇的な展開に

社会人野球の2大大会の一つ、都市対抗野球。SUBARU硬式野球部はこれまでに2度、準優勝を果たしています。最初1969年の第40回大会でした。劇的な展開を見せた試合を振り返ります。

ピンチの場面でゲリラ豪雨

1969年8月4日。創部17年目の太田市代表・富士重工業(現SUBARU)は群馬県勢初の「全国制覇」に王手をかけていました。決勝の相手は千葉市代表の強豪・電電関東(現NTT東日本)です。ナインは勇躍、後楽園球場に乗り込みました。

当時の後楽園球場はドームではなく、屋根がありませんでした。夏の高校野球のように真夏の太陽がジリジリと照りつける中、試合開始!
始まるや否や、相手先頭打者が、富士重工業の先発・エースの石幡信弘投手の3球目をレフトスタンドに運び、先制点を許してしまいます。しかし、石幡投手はその後、すぐに立ち直ります。鋭いカーブを武器に相手打線を五回まで内野安打1本に封じ込めました。

電電関東との決勝戦で盛り上がる富士重工業のスタンド[1969年8月4日])

 

1点を追う富士重工業打線は二回、四球と田中義弘選手のライト線への二塁打で1死二、三塁と絶好の同点機を迎えます!が、後が続きません。その後も何度もチャンスを作りながら決定打を奪えない展開が続きました。
そんななか、球場の上空は、厚い雲に覆われ始めるのです。

午後5時3分には照明が点灯。そして、六回裏。富士重工業が2死一、三塁のピンチとなった場面で土砂降りの雨が降り出しました。今でいう「ゲリラ豪雨」です。土のグラウンドには瞬く間に大きな水たまりができました。試合は中断。雨は30分間ほどでやみ、一時はグラウンド整備後の「午後9時再開」と決まりましたが、再び雨が降り出し、午後7時18分、大会特別規約に基づいてノーゲーム再試合となりました。富士重工業にとっては、幸運の雨だったと言えるでしょう。

石幡投手、八回まで4安打無失点の好投

翌5日に行われた仕切り直しの決勝戦再試合。午後3時半プレーボールの試合は、約3時間後にまさかのクライマックスを迎えます。

富士重工業の先発はこの日も石幡投手。チームの大黒柱として初戦の2回戦から全試合で先発を任されていました。その左腕エースは得意のカーブで相手打線を翻弄し、八回まで許した安打はわずか4本。スコアボードに「0」を重ねました。

エースの好投に応えるべく、それまで再三の好機に要所を締められた打線が六回、待望の先取点をプレゼントします。先頭の主将・後藤富造選手が三塁内野安打で出塁し、続く奥村(現姓・茂木)啓司選手の1球目に二塁盗塁に成功。奥村選手のバントは、二塁走者のタッチアウトを焦った三塁手の落球(記録は失策)を誘い、無死一、三塁と好機が広がります!ここで3番・木村精二選手。鮮やかにスクイズを決めて待望の1点!!
0−0の均衡を破りました!

九回裏。念願の全国初制覇まで、あとアウト三つ。相手打線がエース左腕を打ちあぐねているのを見ていた一塁側の富士重工業応援団は誰もが勝利を疑わなかったに違いありません。

決勝の舞台で1-0の、しびれる展開に

1−0のスコアという展開は、プレーする選手にとって一番しびれる試合だと言われます。特に投手は「1点もやれない」と無意識のうちに緊張を強いられます。それが時に手元を狂わせます。体調が万全でない中で好投を続けてきた石幡投手が「優勝」の2文字を意識して堅くなるのも無理はありませんでした。

先頭の4番打者に四球。次打者にレフト前ヒットを許し、無死一、二塁。6番打者を三振に仕留めるも、7番打者に四球を選ばれて1死満塁のピンチを背負いました。
ここでバッターボックスには今大会初打席となる代打・太田垣亘彦選手。石幡投手は1ボール2ストライクと簡単に追い込むと、4球目に決め球のカーブを投じました。「当てるのが精いっぱいでヒットを打てる気がしなかった」という太田垣選手のバットから放たれた痛烈なゴロが、前進守備の内野手の足元を抜け、レフト前に転がりました。左翼手・松儀健司選手は懸命に本塁返球しましたが、三塁走者に続き、二塁走者も生還。まさかの逆転サヨナラ負け。手元まで引き寄せた「勝利」に土壇場でするりと逃げられてしまいました。

試合後、捕手の緒方欽也選手は「負けたような気がしない」と悔しさをにじませました。小林勝巳監督は「石幡はグラウンド、スタンドの重圧に負けず、よく投げた。むしろ逆転打を打った選手の気力に感心するばかりだ」とエースを労いました。

惜しくも準優勝にとどまりましたが、この大会の快進撃でチームは「富士重工業」の名を全国に轟かせました。

久慈賞を受賞した石幡投手

全試合で先発したエースの石幡投手は準決勝の富士市・大昭和製紙戦での4安打完封勝利を含む3勝をマーク。チーム初の決勝進出と準優勝の大きな原動力となり、敢闘賞にあたる久慈賞を受賞しました。優勝していれば、間違いなく大会最優秀選手に贈られる橋戸賞を受賞していたでしょう。また、昭和天皇、皇后両陛下がご観戦した準々決勝の大阪市・日本生命戦での勝利はチームにとって忘れられない思い出になっています。

■1969年都市対抗
富士重工業 戦いの軌跡

▽2回戦
富士重工業 0100210002=6
クラレ岡山 0000001210=4
(延長十回)

▽3回戦
富士重工業 001100010=3
鷺宮製作所 000000000=0

▽準々決勝
日本生命  000001100=2
富士重工業 10100001×=3

▽準決勝
富士重工業 000001000=1
大昭和製紙 000000000=0

▽決勝
富士重工業 000000
電電関東  10000
(六回裏降雨ノーゲーム)

▽決勝(再試合)
富士重工業 000001000=1
電電関東  000000002=2

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